行定勲監督インタビュー2018

2018年9月29日(土)、30日(日)の2日間、「行定勲監督による俳優のための実践的ワークショップ」が行われます。開催にあたり、講師である行定勲監督に緊急インタビューをしてきました。聞き手は、アクターズ・ヴィジョン代表・松枝佳紀(まつがえ・よしのり)です。

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松枝:忘れてしまったんですが、どこかで、行定さんが今後はもう原作物とか、有名キャストを使った映画を撮らないと宣言したというような噂を聞いたんですが、それは本当ですか?もし本当なら、原作物は今後もぜひやってくださいと説得したい気持ちで今日はやってきたんですけど。

行定:原作物をやらないと言ったとか有名キャストを使わないと言ったというのは正確ではないですね。それに近いことは言ったんだけど、そういう意味で言ったんじゃないんです。その時の記者さんが誤解したまま記事にしちゃったんじゃないかと思う。現に来年3本すでに原作物で撮るのが決まってる。これからオリジナルもやっていきたいと言ったのは事実だけど。

松枝:安心しました。行定監督が原作物を見事にご自分の作品として映画化されるのをドキドキして見て来たので、それは続けて欲しいなと思っていて。それにしても、あえて、オリジナルもやっていきたいと発言した真意って言うのはなんなんですか?

行定:巨匠とよばれる監督達の残ってる作品で名作と言われているものは、彼らの晩年のものが多いんですよね。今年50歳になった僕もついに晩年を迎えつつある。だからこれからは、オリジナルとか、目先の興行をあまり意識せずに本当に撮りたいものをやっていこうかなって思っていて、そういう発言になったんです。

松枝:調べたんです。小津安二郎は50歳で東京物語を撮っています。黒澤明は50歳で「悪い奴ほどよく眠る」次の年に「用心棒」次の年に「椿三十郎」。「雨月物語」は溝口健二が52歳の時、「赤線地帯」が58歳の時で、遺作ですよね。成瀬巳喜男も50歳で「浮雲」。今村昌平が52歳で「復讐するは我にあり」。深作欣二が50歳で「復活の日」51歳で「魔界転生」52歳で「蒲田行進曲」・・・。

行定:黒澤明さんとかは天才で、最初から素晴らしい作品を作っていたけど、ほとんどの監督たちは、映画というものがある程度分かってきた晩年から素晴らしい作品を残していることが多いと思う。成瀬巳喜男や小津安二郎がそうですよね。晩年の10年でスタイルが固まって、歴史に名を残す作品が生まれている。大雑把に言うと、映画監督には二通りあって、1つが初期のデビュー作が素晴らしくて、それでずっと名を馳せて、晩年は段々と静かになっていくってタイプ。もう1つは晩年にしがらみとか、そういうものがもうどうでも良くなってきて、撮りたいものだけを撮ればいいって撮って名作を残すタイプ。小津安二郎だって後期に差し掛かるくらいの頃に、いろんな人にいろんな事を言われて、俺だって成瀬みたいに撮れるぞって「東京暮色」を撮るんだけども、やっぱり成瀬みたいに出来ないと自覚して、そのあと、完全に自分のスタイルを確立していった。僕も自分がどういうタイプの監督かと思った時に、天才ではないから、色々な経験を積んで成熟していくタイプなのかなと思っていて。

松枝:だから、これからなんですね。

行定:そう思ってます。僕の出発点は、助監督として、インディーズ映画が元気な時代に、林海象さんとか、石井聰互さん、岩井俊二さん、山本政志さんという名だたるトガッタ監督たちの下について、沢山学ばせてもらったこと。彼らは、原作物じゃなくてオリジナルで勝負するのは当たり前だった。でも、僕は映画監督になって多くの原作物の映画を作ってきた。それはひとえに、日本映画に観客を取り戻したいという気持ちからだったんです。というのも、韓国の同じ世代の人たちには、ポン・ジュノやキム・ジウンやホ・ジノとかがいて、その人たちが韓国の観客を韓国映画に呼び戻したのを横で見ていて、当時の日本人が日本映画を観に行かない状況がこっち側にあって、日本映画はいったい何をやってんだろうなって思っていた。それで、日本映画に観客を取り戻すために、がむしゃらに話題になる原作ものをやってきたのが僕のこれまでの20年ということになるんです。

松枝:なるほど、それで50歳となった今年を契機に、商業映画をやらないわけではないが、もっと作家主義的にオリジナルを多く作っていこうと思い立ったということですね?

行定:それは違うんです。僕は自分のことを作家主義とか思っていなくて、作家というよりは、やっぱり映画監督なんです。映画監督というのはどんな形であれ企画を成立させて、観客に届けて、それを後世に残していく人です。僕は作家というよりもそうありたい。そう思った時に、作家主義と割り切って、自分の好きなことをやろうとは思わない。

松枝:観客を取り戻すためにやってきたこれまでと、作家主義とは言わないまでも、行定さんのやりたいこと、つまりオリジナルの割合を高めることをやっていこうということのように僕には聞こえるんですけども、そうではない?

行定:いまの映画制作環境からいうと、製作者側はオリジナルをまだ支持していないんです。やっぱり商業映画に関しては、オリジナル作品には多くの制作者が抵抗感をもっている。インディーズは逆で、お金もないので、むしろオリジナルのほうが作りやすい。僕だってやろうと思えばインディーズでオリジナルをやることはできるんです。

松枝:しかし、そういった映画制作の環境のもとでも、行定さんご自身はこれからはオリジナルを何とかやっていこうということですよね?しかもインディーズじゃなくて、商業映画のなかで。

行定:「うつくしいひと」っていう熊本が舞台の映画を作ったんですが、これは、インディーズの作り方なんですよね。少し助成金を出してもらって、後は自分たちで資金工面をする。そういう言うやり方で、あの映画は作ったんです。

松枝:とても面白く拝見しました。

行定:メジャーでオリジナル作品を作るにおいては、あの映画の作り方が少しヒントになっているんです。いまの時代には、面白いものを作ればちゃんと観てくれる状況があるんだなって確信ができたので。それから最近は、深夜ドラマが面白いと思っているんです。深夜ドラマで映画監督たちが暴れている。昔は映画を撮れない監督が深夜ドラマをやっていたという印象があるけど、いまは面白いものを作るために映画監督が好んで深夜ドラマをやっている。そしてその時に使うキャストは、映画なら、決して主演をやらないような、三番手とかそういうキャストなんです。でも、その人をキャスティングする理由がはっきりしている。役に合ってるからキャスティングした、作品のためにキャスティングした、というしごく当たり前の理由なんです。監督も俳優も視聴率を取るためじゃなくて、面白いものを作るために暴れている。自分たちは映画監督だからテレビでハズしたって平気だと暴れている。そういう状況が新しい俳優の活躍の場を作り、エキサイティングな物語を生み出している。だから深夜ドラマが面白い。でも僕はそれを映画でこそやらないといけないと思っているんです。

松枝:それには製作者側に、行定さんのおっしゃっている意見に同調してくれる人たちが必要ってことですよね。そういう人たちはいるんですか?

行定:いますね。いますが、いなくても作れる。それは自腹を切るということです。これくらいなら工面できるかなって、多少損をしても、持ち越していけば次の作品が作れるってことになればいい。「カメラを止めるな!」みたいなのが出てきたときに、あの強みは何かっていうと、失うものは何もないって事でしょ。当てる必要なんてなかった。だから、監督、スタッフ、出演者全員が自分たちの面白いと思うことに全力で向かって、できたものを、誇りを持って、すごいんだと言える。すがすがしいでしょ。でも、当たった。それは証拠なんです。いまの日本には、おもしろければ観客に支持される状況がある証拠なんです。商業目的でなかったものがあれだけ観客の心をつかむのは本当に大したことだし、商業目的でやっている沢山の映画を「カメラを止めるな!」が追い越して行ったことは、「当たる映画を作りたいならば、「作りたい」は「売りたい」に妥協するべき」という命題、映画製作者が信じていた命題に対する強力なアンチテーゼ、反証なんです。

松枝:カメ止めに関して、僕もそう思います。行定さんの今言われたことを強く支持します。

行定:だから、最初のマツガエさんの質問に戻るけど、原作物をやらないと言ったわけではなくて、やります。やるけれども、これからは、インディーズ的な発想をより重視して、商業でオリジナルを作っていきたいってことです。沢山の人に支持されることを目標にするとできないような作品、「何でこんなものができたの?」ってものを商業でやらないと、きっと日本映画は見向きもされなくなるだろうなって思ってる。

松枝:いまのご意見には全く賛成です。賛成なんですが、やっぱり行定さんには原作物もやってほしいと思うのは、僕は今までの作品にも、どんなメジャーな作りをしていても、行定さんのインディーズ魂みたいなものがあるのをすごく感じているからです。

行定:僕は、人を撮ってる方が面白いんです。結局は人だろうなって思ってるんです。人間の関係性とか、もっと言うと、ただ飯食って、セックスして、寝るっていう、この3つだけあれば、それを面白く撮れるのが映画なんだって思っているんです。そして人間を面白く撮るために、物語や設定という仕掛けがある。俳優に、ある役、ある物語を与えることで、俳優が自分の想像もしない何かを引き出すきっかけを作ってる。でも、物語に興味があるわけじゃない。根本的には人間。どんな表情をし、どんな仕草をし、どんな行動をするのか、そこに興味がある。

松枝:そのように物語よりも人に興味を持つようになったのはいつからですか?最初からなんですかね?

行定:いや、むしろ逆で、僕はもともと人に興味がないんですよ、本当は。

松枝:ええっ?

行定:僕はよく、人のことを愛したりとか、そういうことしたことないでしょって指摘される。

松枝:誰に言われるんですか?

行定:色んなひとに。

松枝:でも、違いますよね?

行定:いや、そうかもなぁって自分で思うところもあるんです。僕は、誰かのためにやるというよりは、自分のためにやってるんだろうなって思うところが無くはない。もともと人に興味がなくて、自己完結でいいんですよ、たぶん、僕は。だけど、いつしか、それだと映画が成立しないかもなって思うようになって、その逆のことをやり始めたんですよ。

松枝:いつぐらいですか、そう思うようになったのは?

行定:この10年くらいですかね。それまでは映画が撮れればいいじゃんって思っていて、闇雲に色んな企画を作って、自分の好きなものにインスパイアされて何か作ってるみたいな。ここ数年は、題材はとにかく置いといて、題材なんてなんだっていいんだよと、人と作ること、人に興味を持とうと努力しようと。

松枝:人に興味を持とうと努力をする、そのきっかけとかは何かありますか。

行定:映画を撮っていく中で気づいたというのと、あと演劇をやるようになってからかな。演劇をやるようになって役者と距離が近くなった。こんなにみんな飲みたがるんだなぁって思ったり。俳優たちって、作品の内容について、こんなに話したがるんだって気付いたり。映画は話し合いというよりも、それぞれの解釈をぶつける場であって、それをそのまま自分でこうですってやっても、編集とかで切られてしまったり、後ろ姿しか映ってなかったら、その表現したことが映らないわけじゃないですか。映画の残酷なところは監督に全部委ねられてる中で精一杯やるしかないってことなんですよね。でも、演劇って、舞台の上に乗ったら、俳優が演出家に対してテロを起こしてもいいわけだよね。ダメ出しでお前何やってんだよ!って言われても、舞台でついやっちゃったんですって言えばいい。次の回にたとえそれができなかったとしても、そのやっちゃった回はもう変えようのない永遠の一回だから。でもそれがきっと、その信頼関係というか、その試行錯誤あって、何かが定着していくんですよ、芝居の稽古をしていくと。好き勝手やってるのに、俺の想いとか何にも言わないで繰り返しやっていって、結果的に、何か良いものが見えてくるんですよね。演劇をやるうちに、あ、役者って面白いんだなって思うようになった。そして役者というものが、だいぶ近い存在になった。

松枝:なるほど

行定:演劇をやってみて気付くことが沢山あった。僕は演技の経験はないんですけど、演技をしたことがある俳優出身の監督の撮った映画のほうが面白いのはそういうことなのかと。そういう監督は、やっぱり役者の生理が分かってるんですよね。

松枝:カサヴェテスとかも俳優でしたしね。

行定:演劇と映画ってだいぶ違う。演劇って俳優修業じゃないですか。自分の出番じゃない時にもずっと稽古場にいて、ずっと他人の演技を観てるわけでしょ。映画ではまずあり得ない。自分の場面が終わるとお疲れ様です、お先ですっていち早く帰っちゃうわけだから。

松枝:そういう意味では映画と演劇は大きく違いますよね。

行定:映画って時間をかけない。だから、僕が演劇の演出をしはじめたとき、映画のペースで演出していくから「はい、それでいきましょう」ってどんどん出来ていっちゃうんですよ。10日くらいでできちゃう。中井貴一さんも「こんなに早い演出家は舞台では初めてだ」って驚いてた。でも、一度完成しても、10日も経つとダメになっていく俳優もいて。分かっちゃうとダメになる人っているんですよね。とことんダメになる。ダメになってそれを乗り越えて、さらにその高みへと這い上がっていく。それを観客に披露しながら千秋楽にむけてだんだん良くなってくる。演劇って、そういうことなんだって知ったし、俳優ってそういうものだってよくわかった。だから、映画が、ストーリーや設定を前提にして、そのうえで踊る人間、つまり俳優を味わう物だとすると、その微妙なコンディションの変化でダメになる俳優というものの生理を知らないと、面白い映画はできないと思うようになった。

松枝:いま行定さんが言われたように、映画ってストーリーや設定は前提なんですよね。とくに原作物なんて、ストーリーは監督の成果じゃない。ストーリーに言及する映画の感想ばかり見るんだけど、あるシーンで、俳優が、というか人間がものすごい強度でそこに存在する、そんな奇跡のようなシーンを撮れたことのほうが映画の成果、監督や俳優の成果なんじゃないかと思うんです。そういう意味では、行定さんの映画は、すごい強度を持ってそこに人間が存在するシーンを多く持っているように僕は思っていて、一体、そういうのはどういう演出によって引き起こされるんだろうなって思っていて。その興味でワークショップをお願いしているというところもあるんです。うちに来る俳優たちが、行定さんの演出で、どこまで虚構の中で真実に存在できるようになるのかというのが知りたいし、見てみたいなと思う。行定さんがいいと思う俳優はどういう俳優ですか?

行定:なにかやらかそうという俳優は好きじゃない。奥ゆかしい人がいいよね。自分のことを過信しないで、奥ゆかしく、本当はもっとできるはずなんだよなって思っている人。そういう人は何か力を発揮してくれるんです。「もっと私はできるはずなんだ」って怒りの方にいくんじゃなくて、溜め込んでる方がいいんだろうな。そして、類型的な芝居をその人固有のものを使って「普通」にできる俳優がいいね。類型的と言ってもベタではなくてね。

松枝:類型的であって、ベタではない…

行定:ベタと呼ばれるものは、今までに観た誰かの演技を模倣しているもの。いわゆる代表的な演技を。それはベタになるんですよ。最初にそれを発見した俳優や演出家は偉いんです。発見した時その演技は画期的だったんだと思うし、真似されるんだから歴史的な発見でもある。でも、それを、そのあとの人が何も考えずにやっちゃうのはダサいというか怠惰なんです。真似だから、本当に起こっていることじゃないから、何もドキドキしない。記号になっちゃってる。

松枝:類型的というのは、歳の差男女とか、兄と妹とか、老人と少女とか、白人と黒人のコンビとか、特徴的な関係性の時に、起こりうる人間の振る舞いを把握しているっていうことだと思うんです。多くの人が、説明無くして、納得できうる人間関係だから、それを利用することで伝えるべきことが多くの人に届く。でも、だからこそ、その類型的なものっていうのは演じる時に、ベタになりがちです。しかし、行定さんが望んでいるのは、類型的であり、かつベタではないものなんですよね。その場で本当に起こった生きていることにしてくれる、そんな俳優が良い俳優だっていうことですよね。たしかに、そういう俳優は理想ですね。

行定:例えば、背の高い男と、背の低い女の子がキスをするときに、男の背が高いんだって表現するときに、ある映画監督は足下を撮って、爪先立ちになる彼女を撮ってキスを表現する。それは歴史的にもある表現でしょ。これを最初に撮ったときは、あぁ、上手いなぁって。それで上は見せない。どうなってんの?ってやっとのことで上を向いてキスの瞬間を見せるのか、もうキスをしているのかを映す。それを最初に発見した人は偉いけど、今はもうそれはベタだなぁってなるじゃないですか。すると、これはもう歴史的にやったものだから、そうじゃないことってできないのかなと次の人が考え始める。ベタになにかを付け加えるというか。でも何かを付け加えてそこを逸脱してしまってもいけない。だからそこで、素直にそのベタをやってるんだけど、そのキャラクターなりの照れとか、その奥行きにあるものを表現する。

松枝:それが「類型的であって、ベタではないもの」なんですね。

行定:シナリオにある行為が書かれていても、実は、それをどう演じるかには数限りない自由があるはず。それ以上僕は何も言わないです。どういう風にやってとは言わない。やってみたらどうなるの?とは言います。でも、書かれてないことをやっちゃだめです。決められたことからははみ出ない。だけど、自由にやる。そこに演じる人固有のものが現れる。それが見たい。

松枝:類型をあるあるパターンではなく目の前で起こっていることとして演じるためには、本当にそれが俳優の身に起こるしかないんですよね。それは俳優に委ねるしかないんですよね。

行定:そうですね。結局そこなんですよね。結局、俳優なんです。

松枝:そして、それは、テキストは何でもいいというところに繋がっている気がします。

行定:そうなんです。前にね、「面白くない話」っていうシリーズを書いたんだよね。何これ、何も起こらないじゃんっていう。もちろん面白くないって言われたんだけども話で面白くしようとしたんじゃないから面白く無くて当然です。でも俳優が面白ければ面白くなるんです。小津安二郎も、ストーリーじゃないところを求めていたからあぁなったわけじゃないですか。僕は、ジム・ジャームッシュは小津安二郎の息子だと思ってるんですけども、彼もストーリーなんて求めてない。日常のルーティーンの中で、何かが起こるかをじっと見つめているだけというか。そして彼が撮った「パターソン」みたいな傑作が生まれるわけじゃないですか。あれをカンヌがパルムドック賞しか与えないのは愚かだなと思った。こんな素晴らしい詩人の物語を、これこそ讃えないといけないんじゃないかって。これ以降、ジャームッシュやる気なくなっちゃうんじゃないかって。まぁ本人はカンヌなんかに相手にされなくていいよって思ってるかもしれないけど。

松枝:評価されないことで逆に喜んでるかもしれませんね、お前らには分からないだろうって。

行定:でも本当に、あの映画が理想かな。どんなに細かい芝居をしているより、ぼーっと毎日バスに乗って、少しエキセントリックな奥さんを見守っていて、大事にしていた詩集を飼い犬にボロボロにされるっていう。その時の途方にくれる彼に、またエールを送るというか。あのアダム・ドライバーがまた素晴らしいんだよね。あんな芝居ができるんだって。彼はエキセントリックな役も多いけど、すごく味わいのある素晴らしい俳優だと思った。あぁいうのって誰にでもチャンスはあると思うんだよね。でもやっぱり売れてるアダム・ドライバーだから見せられる色気だともいえる。色気というか、奥行きかな。豊潤な奥行きがある。

松枝:それは、もはやレッスンとかで身につけられるものじゃない。生きていく中で培うものですね。

行定:ほんとうにそう。どう生きているかがすべてだとさえ言ってもいい。

松枝:僕はシナリオを書くから、若いときは、自分にしか書けない物語を書きたいとすごく思ったけど、段々、そういうのどうでもいいやってなっているんです。俳優が真実である方が大事で、話なんてその俳優を生かす額縁に過ぎない。

行定:話いらないっていうのは分かるね。芥川賞の映画化とかは基本的に話じゃないんだろうなって思う。あれは短編とか中編でしょ。結局、人は長編を映画化しようって思うところがあるから、映画は中編とか短編を映画化するのが1番いいと思うんだよね。俳優がそこで演技をするって間尺から考えると、長編の名作とかやっちゃうとストーリーの説明で2時間が終わっちゃうよね。だから落語みたいな話の長さがちょうどいいんじゃないかな。映画が好きですっていう人たちは物語じゃないところで観てると思うんだよね。

松枝:人間を見るのが面白いですからね。20世紀の初めに谷崎潤一郎が言ってるんですけど、活動写真に弁士とかついたりしているけど、そんなの要らないと、ストーリーもいらないと、ただ人間の笑っているところとか、人間みているだけで活動写真はじゅうぶんだと。結局、それは21世紀になっても同じで、映画って結局フェティッシュに人間を見るためのモノなんだなと思います。

行定:やっぱりそうだと思うよ。この人が微笑んでるのが美しいなって思ったり、自分がそこから夢想するわけでしょ。説明がなくていいっていうね。だから役者との出会いがすごく大きくて、この人を撮ってみたい、この人を撮るには何かなっていう。歳とっていくと段々そっちにいくのかもね。ある女優さん見つけて、じゃあこの人で撮ってみようって。何人かそういう人がいるけどね。でもそんなにすぐに撮れるかどうかっていうね、インディーズだとすぐ撮れるけども、商業としてちゃんと撮りたいから。でも、そんなに多くの人に観てもらえなくてもいいけどね。演劇って限られた人しか観れないでしょ。数人の人しか観てないわけですよね、そして観た人しか会話できない。映画もそれでいいんじゃないかなって。映画は広く広がるから、いろんな野心のある人たちが入り込んでくるんですよね。儲かるかもしれない、有名になれるかもしれないってみんな思うからね。でもそこじゃないんじゃないかなってだんだん思うようになってきたかな。

松枝:そういう行定さんの企みに乗れる俳優がうちのワークショップにいるといいな。

行定:松枝さんに紹介してもらった人のなかにもこれまでに何人かいましたよ。実際に起用した人もいるし、携帯に今後キャスティングしたい人の名前を入れてある。今度の2日間でもどんな人に会えるか楽しみにしている。芝居がうまいとかはもう関係ない。

松枝:僕も非常に楽しみにしています。

(2018年9月18日、渋谷にて)