矢崎仁司監督インタビュー2014

2014年12月4日(木)、5日(金)、6日(土)、7日(日)の4日間、「矢崎仁司監督による俳優のための実践的ワークショップ」が行われます。開催にあたり、講師である矢崎仁司監督に緊急インタビューをしてきました。矢崎仁司監督がどのように俳優と接してきたのかなど、興味深いお話を聞かせていただきました。聞き手は、アクターズ・ヴィジョン代表・松枝佳紀(まつがえ・よしのり)です。

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▼「俳優たちと出会いたい」

松枝 今回、矢崎監督にぼくらのワークショップの講師をお願いしたいなと思ったのは、矢崎監督の作品の繊細な人間描写に感銘したからです。その人間描写に耐えうる俳優の誘導術を知りたいなと思いました。そして実際にぼくらのワークショップに集まる俳優たちを演出してもらって、監督の作品に耐えうる力を持った俳優たちを、可能ならスクリーンの中に引っ張って行ってもらいたいなと思ったんです。で、たまたま次回作をプロデュースされるのが、僕が普段より仲良くしてもらっている方だったので、監督を紹介していただき、だめもとで講師をお願いしたら、お受けしていただけて、大変うれしいです。でも、矢崎さんは、あまりワークショップはやられていませんね。

矢崎 やってませんね。数えられるほどですね。

松枝 ワークショップをやられない理由というのはあるんでしょうか?

矢崎 自分には他人を教えると言うようなことができるとあまり思わないんですよ。

松枝 うちのワークショップは、監督が俳優に何かを教えるという感じではなくて、むしろ現場と考えていただいて、本番と同じように俳優たちと接していただきたいと思っています。内容としては、監督によって様々なんです。演技の基本を教える監督もおられれば、次回作の出演者を具体的に探しに来ている監督もおられるし、はたまた、普段はやらないような演技的な実験をされる監督もいる…というように。いずれにしましても、俳優と監督の濃い素敵な出会いの場所になればいいなと思っています。

矢崎 松枝さんがそういうことをおっしゃられるので、今回のお話を受けたんです。とくに、新作がいくつかひかえているので、俳優たちとは出会いたいなというのが、基本的にあります。

▼「悩むのが監督の仕事」

松枝 矢崎監督の現場ってどんな感じなんでしょうか?

矢崎 現場は、基本的にモノが生まれる場所だから、ばたばたしてるのが僕は駄目なんです。だから、スタッフを選ぶときにも、「言葉の綺麗な人を選んでください」とプロデューサーにお願いしたりしますね。静かな現場にしたいんです。怒鳴り合うような声が聞こえる現場というのは良くない気がしますね。…叱られるって言う意味では、たぶん僕が現場で一番叱られてますけどね(笑)

松枝 え?監督が叱られてる?(笑)どういうことですか?

矢崎 撮影の石井さんに光を逃すのがつらいとしかられます。太陽の加減があるから、現場で悩まないでくれって。

松枝 悩まれるんですね。

矢崎 むしろ、悩むのが監督の仕事だと思っています。とは言うものの、自主製作の頃と違って、最近の現場は、俳優とかロケとか色々スケジュールや予算がありますからね、現場で悩まないでくれと言われますね、色々な人に(笑)現場は、消化する場所ですって。

松枝 でも、悩む。

矢崎 はい、それが仕事ですから(笑)

▼「人を動かしたい」

松枝 何を一番悩まれるんですか?

矢崎 どう人を動かすか…ですね。

松枝 どういうことですか?

矢崎 たとえば喫茶店で2人向き合って話しているというシーンがあるとしますよね。そこで、俳優さんに、所定の場所に座ってもらう。そして、その様子を見ながら、悩むんです。なにか動かせないかな、動かせないかなと。

松枝 なるほど

矢崎 僕は「動かす」っていうのが演出だと思っていて、だから、どう動かそうかといつも考えています。それが決まらないとカットも割れない。どうやって動かすか、そこが、一番、悩むところですかね。芝居はもう俳優さんは出来てるんで、フィックスで、2人が話しているのを撮っていれば、そのシーンは成立しちゃうんですけどね。でも、それだけでなくて、なんか「動かしたいな」というのがあるので、そこで悩んじゃうんですよね。

松枝 その矢崎さんの言われる「動かす」ってことは物理的なことですか?それとも心理的なことですか?

矢崎 たとえば座って話していて、あるタイミングで立つとする。そのときに、具体的に、どのタイミングで、どうやって立つか、なぜ立つのか、ということですね。それだけを見れば「物理的」なんですけども、もちろん「心理的」なことがちゃんとあったうえで決まってくることです。ただ、「心理的」なことは画に映らないから、どう見える形で「動かすか」が大事なんです。そして、例えば、どこでどうやってどうして立ち上がる?みたいなことを、俳優さんたちと議論できると面白い。それをやりすぎると時間がなくなってしまうんですが(笑)

▼「人物を風景の中にうずめたい」

松枝 その「動かす」ということの根源というか、そもそも矢崎監督は何を見たいと思っているんですか?

矢崎 「ストロベリーショートケイクス」の時ですが、中越典子さんと加瀬亮さんが並んで信号待ちしているシーンがあるんですが、その赤信号で待っている2人のたたずまいを見た時に「あ、この2人はカップルだけど、きっと別れるな」という距離に立っているんですよね、ふたりが。さすがすごいな、俳優さんはって思ったんです。こういう風景が見たかったんだということに、その時、気付かされたんです。

松枝 なるほど

矢崎 普段、電車の中で扉付近に立っているカップルなんか見ても、わかるじゃないですか。ふたりが今どういう関係なのかというのが。僕が描きたいのはその「空気感」というようなものなんです。そして、その描くべきものが俳優やスタッフの間でひとつのコンセンサスとして得られると、僕的には、この映画は大丈夫と思えるんです。しかし、なによりも、それ(=描くべきもの、撮りたい「空気感」)を探しだし、作り上げるのが大変なんです。それもできていないで、カット割りを決めて、順番に撮って行くことに抵抗があるんです。たしかに、段取りを決めれば撮れるには撮れますが、そうやって撮ることによって、逆に、本来撮るべき大事なものを逃してしまうことになる。なので、僕は、カットを割るとかそういうことの以前に、そこで起こることがなんなのかを突き詰めるために、まず時間を割くわけです。まあ、そうしているうちにカットが割れなくなって、現場が止まってしまうことがあるんですけども(笑)

松枝 そんな時はどうされるんですか?

矢崎 「整理しましょう」と撮影の石井さんに言われて(笑)、何をどう撮りたいのか、どう撮ってきたかを整理して…やるべきことを見出しましょうと。そうこうしていくうちに撮るべきものが見えてきて、それで、じゃあやりましょうかとなる(笑)。

松枝 なるほど…、今、すごい腑に落ちたんですが、悩むというのはある意味「誠実さ」だと思うんです。撮るべきことがわかってないのに、段取りを決めてサクサク「仕事として」撮るというのは「不誠実」なことですよね。矢崎監督は「仕事として」撮ることを良しとせず、撮りたいと思っているものをちゃんと現場で発見しながら撮っている。だから悩む。現場で(笑)。だからストップする。現場が(笑)。それは非効率だけど、でも繊細で大事なものをちゃんと撮るには大事なことなんですね。だからこそ、矢崎さんの映画はあんなにも繊細なんだと。いま、すっっごく腑に落ちました。

矢崎 「空気感」という言葉で言っていいのかどうかわからないですが、それが産まれて、スタッフや俳優さんの間でそれが共有できるまで、何度も何度もやり直すというか、余計なことを含めて試行錯誤をするというか、それが大事だと思っています。それから、もう一つ、重要に思っているのは、まず人を「風景」にうずめるってことです。一旦、「風景」にうずまって、でもそれから浮き出てくれば良い。僕は、はじめから人が浮き出ているのが嫌なんですよね。

松枝 なるほど

矢崎 たまたま僕が歩いていたら、向こう側の橋の上にカップルがいて、こちらがそこに注目してみると、「なんだかあれ、別れ話してるよね」と、こちらが感じたりする。でも、そのカップルは、はじめ「風景」にうずまっているわけですよ。だから、僕はまず人を風景にうずめたいんです。

松枝 風景にうずめたいというのは、あからさまに表現したくないということだと思うんです。あからさまに表現すると記号になってしまう。空気やリアルさなんてどうでもよくなってしまう。なるほど、すごく腑に落ちました。映画は表現をすることなんだけど、でも表現しすぎないってことでもあって、そこが難しいってことですね。

▼「撮れなくなったと正直に告白できる現場」

松枝 しかし、その監督の要求するもの…結構高度だと思うのですが…それを察知することのできる俳優ばかりじゃないですよね。どうしてほしいかということは俳優に伝えるんでしょうか?

矢崎 良い俳優さんていうのは、みんなヒントを欲しがる。やりづらい俳優さんていうのは答えを欲しがる。答えは僕は知らない(笑)。一緒に悩もうよということなんだけど(笑)

松枝 「悩む」ということが監督の創作におけるキーワードのようになっているのですが、シナリオというのはある意味、悩まなくて済むための「答え」でもあるわけですよね。泣くことは決まっているし、離婚することは決まっているし、ハッピーエンドも決まっている。

矢崎 こういうことがありました。ある時、ラストシーンを最終日に撮ったんですが、はたと撮れなくなった。というのも、それまで撮ってきたものとラストシーンが結びつかなくなってしまったんですね(笑)

松枝 ええっ!!

矢崎 そうなんですよ。それで、俳優さん2人に相談しに行って「このシーン撮れないよ、どうしよう」って(笑)「僕はどうも、このラストが来るような撮り方をしてこなかった。だからここがどうしても撮れなくなってしまった。だからちょっと悩ませてくれないか」と言ったんです。

松枝 なるほど・・・。矢崎さんは、その場その場に産まれる「空気感」を大事にされ、映画が人間を無視した「意図の奴隷」になるのを嫌われていますよね。だから、「空気感」の積み上げのうえに、必ずしも、机上の論理で書かれたシナリオのラストシーンが来るとは限らないってことなんですね…。

矢崎 そうなんでしょうね。

松枝 で、結局、どうなったんですか?

矢崎 1時間ぐらい悩んでたら、俳優さんのほうが呼びに来て、「僕らで考えたんですけど、こういう風にしたらどうでしょうか」と。「ああ、それは面白いね、とりあえず動いてみようか」と。で、動いたら僕のほうにもアイディアが生まれて、「じゃあ、こうしよう」となって、それでやっと撮れた…ということがあります(笑)

松枝 まさに俳優監督と一丸となって本物を取り出すために「悩む」現場ですね。

矢崎 一般的に「監督」というと何でも知っているというようなイメージがあると思うから、正直に「撮れない」「分からない」と言うのはとても恥ずかしいことなんだけれども、「撮れない」「どうしようか」というのを俳優さんにもスタッフにもちゃんと正直に相談できる現場であった、というのは本当にありがたいことだと思っています。

▼「あなたでなければいけない理由」

松枝 矢崎監督はキャスティングが決まってこれから撮影となる時に、俳優さんに「役を撮りたいのではなくて、あなたを撮りたいんです」と言うそうですね。

矢崎 はい。水川あさみさんにも、中谷美紀さんにも、そう言いました。逆に言うと、いくつかの映画を見た時に思ったことですが、ご本人の魅力が映っていない。結局、役を撮ろうとしているから、本人の魅力が映らないんじゃないかって思うんですよね。

松枝 分かります。脚本通りにとることを重視すると、役は映るけど、せっかく本人が持っている魅力なり本物のまとっている空気感なりが映らないということですよね。

矢崎 脚本というのは、ひとつのきっかけに過ぎないと思うんです。たしかに、それがあるから、監督と俳優とスタッフと会話ができる。だけど、大事なことは、それを演じる必要はないってことなんです。

松枝 脚本に書かれていることを撮るよりも、現場で起こる本当のことを撮ることのほうが大事であるし、面白い。そういうことですね。

矢崎 僕がそういうように考えるようになったきっかけは「三月のライオン」を撮るときに趙方豪(ちょう・ばんほう)さんに言われたことなんです。「第三者を介して話をするのをやめることを約束して下さい」と言われたんです。

松枝 第三者?

矢崎 よくあるじゃないですか、「この役だったらこう考えるんじゃないか」とか「この役ならこうするんじゃないか」みたいな会話。俳優さんと監督の間に「登場人物」という第三者を置いてする会話。それをやめて「趙さんならどう考える」とか「趙さんならどうする」とやりましょう、それを約束して下さいと、趙さんに言われたんです。それは面白そうだと言うので乗ったんですが、それが、役ではなくて、俳優さんの本物を撮ろうということに僕が踏み出したきっかけになったんですよね。

松枝 それが「今のあなたを撮りたい」という言葉になっていくということですね。

矢崎 そうですね。

松枝 俳優が「登場人物」に体を寄せていくという話ではないということですよね。俳優が食べ、俳優が愛し、俳優が喜ぶ、実際に現場で起こったそれを撮るってことなんですね。

矢崎 そうでないと、誰が演じてもいいことになっちゃうんです。その俳優さんでなければいけない理由がなくなっちゃう。あなたでなければいけない、僕らでなければいけないというのを撮らないと意味がないと思うんです。

▼「このセリフを削ったとき、どうする?」

松枝 映画って、複合的な面白味があると思うんです。ストーリーが面白い、筋が面白いというのもあれば、あるシーンの人物のたたずまいが面白いというようなこともあって、どっちが欠けて良いっていう話しではないんですが、矢崎さんの映画は、より人間の反応をすくい取るというところにウェイトが置かれているという気がします。

矢崎 そうですね。要は、「出来事」は変わっても良いんです。それはライターが机の上で書いた無限にある「仕草」のうちのひとつに過ぎないんですから。でも、そこで表現しなければいけない「感情」はひとつで、例えば悲しいということが表現したい。でもシナリオ教室で「悲しい」って書くなって言われているから(笑)、ライターは「感情」を書かずに「仕草」を書いたりするんです。でもその「仕草」なんて、机の上で考えた、いっぱいある「仕草」のうちのひとつにすぎない。もちろんその特定の「仕草」が伏線になっていて、重要な場合はそれをしなければいけませんが、そうでないときは、ライターが書かなかった、ほかの「仕草」でも全然構わない。むしろ俳優の生理からは別の「仕草」を選ぶべきということのほうが多い。たとえば、悲しさを表現する「仕草」として「コーヒーを飲み干す」と書いてあったとしても、俳優が「悲しいとき、わたしは食べます」と言えば、食べるシーンにすればいいし、「踊ります」と言えば、踊るシーンにすればいい。

松枝 僕は脚本家でもありますけど演出家でもあって、良く思うんですが、俳優が僕の書いた通りのことをしてしまう。でもこちらは、ぼんやりこういうことがしたい、というのがあって、でも、ぼんやりしたままにしてはおけないから、とりあえず一個の仕草を選んで書く。でもそこに必然性はなかったりする。ある場合もありますが。たいていはない。でも、稽古場にもってくと、本に書いてあるからって、俳優は無理やりそれをやっちゃったりする。脚本が俳優に対する強制性を持ってしまう場合がある。でも演出家としては、もうちょっと俳優側でズレてくれないかなという気持ちが起こる。なにより無理やりやっちゃうことで、それは記号に代わってしまう。それじゃ観客には小説を読んでもらえばいいじゃない、人間がやるのを見せる必要が無いじゃない、みたいなことになる。

矢崎 わかります。

松枝 いっそのこと台本を捨てて、アドリブだけで、エチュードだけで、作るっていうことは考えないんですか?僕は舞台するとき良く考えます。

矢崎 ロンドンで撮ったやつは、そういう感じで撮ったかもしれません。でも、基本、ぼくは台詞はあったほうがやりやすいですね。どういうことかというと、あれば削れるからです。俳優と「このセリフを削ったとき、どうする?」というようなことを話すことができるからです。俳優やスタッフやみんなが、これから「悲しい」シーンを撮ると判っている時に、「わたし悲しいんです」という台詞をカットしてしまう。その時、どうするか、何が起こるかということが、もっともワクワクするところですね。

松枝 ああ。それはとても良いですね。今回のワークショップではそういうことをやりたいですね。映画やドラマなんか見ていると、悲しいシーンで泣いたりする、登場人物が。うーんと思う。それが記号にならずに、ちゃんと「あり」になるっていうのはとても難しいなと。悲しいときに人間はそんなに簡単に泣いたりしない。泣く場合もあるかもしれないけど、そうか?と思うことが多い。長いストーリーの一部なので、さくさく進んで、その泣くシーンで感じた違和感は、そういうことにしたいのねと理解して先に進んじゃいますけど、本当はそうじゃいけないと思うんです。ちゃんと「あり」にして先にすすみたい。今回のワークショップで現段階ではまだなにをやるか決まっていませんけど、いま監督の言われたようなこと、本来ある台詞を削ったときに俳優がどうするかというのは非常に面白い気がしますね。俳優の力量だったり、どれだけ自分を晒せるかの勝負になりそうで面白い気がします。

矢崎 最初にも言いましたが、今回ぼくは本当に出会いたいと思っています。一緒に映画を作りたくなるような俳優さんたちが来てくれると本当に良いなと思っています。

(2014年11月4日、初台にて)